ウォッシャブル全裸

this is my life

銀河英雄伝説11話前夜祭

もはや、余計な前置きは必要ない。

 

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「どうせ声優に釣られたんでしょ?」という意見には、両手を上げて降伏しよう。その通りだ。声帯が宮野真守の金髪碧眼の天才(顔が良い)が登場するアニメなんて見ないという選択肢がない。友人のゴリ押しに負けて録画予約をしたその日から、銀河の歴史がまた1ページ……

 

 

ざっくりまとめると、この話は要するに「超未来、宇宙に進出した人類は銀河帝国とその反乱軍に分かれ150年くらい戦っていたが、そこに2人の天才が登場する」というストーリーだ。書くだけでワクワクする。

頭の弱い私に理解できるか不安だったが、やはり1話からかなり専門用語の飛び交う展開に不安を覚えた。メッチャ難しい。でも宮野真守の声はかなり心に響く。宮野真守の声を聞きたいがために1話を見て、鈴村健一の声のために2話を見て、それなりに話を理解し、あ、いけるかも〜!と思った矢先だった。

 

3話がそれはもう大事件だった。

 

私が30分をあれほど短く感じたのは、グレイテスト・ショーマンを観ていた時くらいだろう。ジェットコースターかと思った。なんかもう色々やばい、という事しか理解できず、見終わった瞬間に銀英伝を全然知らない友人に電話をかけ、「もうなんかやばい」「無理みが強い」と意味不明な言葉を発しながら爆笑していた。比喩でも誇張表現でも何でもないところに、私の可哀想な感性を察してほしい。

 

何がやばいのか、何に無理みが強いのか。銀英伝推しの友人から得た情報も含めて色々考えた結果、2日経ってようやく書き起こせる結論が出た。

 

つまり狂っているのだ。

 

1話の時点でラインハルトとキルヒアイスのことを、「なんか帝国側という立場にありがちな高飛車な天才コンビ」という雑な評価を下していたことを認めよう。だがこの2人は想像以上にやばかった。

 

姉、アンネローゼを皇帝に実質買い取られた恨みから、ラインハルトは軍人になることを決意する。ここまでは良い。だがキルヒアイスを誘うな。そしてキルヒアイスもラインハルトの誘いに二つ返事で了承するな。そしてそのまま2人で最優秀の成績で卒業しないでくれ。何なんだ。(正確に言うとラインハルトが首席、キルヒアイスが次席)

 

キルヒアイスは、ラインハルトに出会った瞬間から彼に呪われている。ラインハルトこそが自分が全てを捧げる相手だとか思ってる。こわい。そしてアンネローゼも、二人と再会した折「キルヒアイスだけがラインハルトを御せる」とか言う。こわい。やめてほしい。更に「ラインハルトが、キルヒアイスの言葉を聞かなくなったら終わりです」と言う。やめてほしい。このアニメ、めちゃくちゃフラグ立ててくる。

ラインハルトは天才だったが、派閥政治的な腐敗した貴族たちを見下しながら昇進していくため非常に交友関係が狭い。ていうか友達キルヒアイスしかいない。キルヒアイスは平民出身のため、もちろん軍人の貴族たちになど相手にされない。お分かりだろうか?

彼らにはお互いに彼らしかいなかった。やばい。もう共依存に陥る環境が整っている。ラインハルトかキルヒアイス、どちらかがメンヘラだったらもう宇宙を手に入れるどころじゃなかった。あーあ、二人が軍人で良かった~~~

 

手記はここで途切れている。筆者が何話だかのキルヒアイス前髪ナデナデ事件で泡を吹いて倒れたのは、語るまでも無い。

 

 

 

 

‪天才東大医学生がテレビで、苦手な科目を尋ねられ、「美術」と答えていた。

曰く、絵を描く必要がなかったから、だと言う。


必要がないからやらない。そりゃそうだ。人間の人生において、芸術が生存の役に立つ日なんて10000000年先の未来にも来ないだろう。多少のイラストの技術が何らかの分野においてごく一部の役に立つ事はあるかもしれないが、素っ裸で無人島に放り出されたら絵など描けたところでどうしようもない。ある程度、人間の生存と安定した社会地位が確立された時、はじめて芸術は「あったらいいな」程度の役に立つのである。

断言できるが、芸術家を志す人間より東大医学生の方が社会において役に立つ。


私は思う。

私は短い人生において大小様々にしろ大量の絵を描いたが、必要があって描いた絵などほんの数%にすぎない。それも「中学校の遠足のしおりの絵」や、「友達にリクエストされた絵」など、極端に言ってしまえばどれもこれも必要のない絵だ。前述した通り、絵は人生において必須事項ではない。数学や物理、英語や国語の方がよっぽど必須事項であることは、中学高校の時間割を見ても明らかである。


じゃあ何で絵描きは絵を描いてんだ、と疑問に思うだろう。


結論から言えば、そんなのこっちが聞きたいくらいだ。なんで私たちは絵を描いている?必要もないのに?社会において全く役に立たないのに?何時間費やしたと思っている、こんな必要もないものに。


この思考を続けていけば、答えはこうだ。絵描きは呪われている。以上である。

勉強よりも絵が楽しく、必要のないものを延々と量産し続ける。神絵師と呼ばれるほど上手ければ何かしら金銭的に役立つものはあるだろうが、絵描き全員が天才ではない。いわば、絵描きは社会的に必要のないものを生産し続ける呪いにかけられたどうしようもない人間なのだ。



だが私は言いたい。絵を描く必要がないと思う人生は、なんてつまらないのだろう。

絵は役に立つかどうかで判断すれば絶対に役に立たない部類のものだ。医学と美術、どちらが生存にかかわるかと言えば医学だし、美術ができないからといって人間は死ななし、とても貧乏になるわけでもない。むしろ絵を描く人間の方が大多数が貧乏だ。


だが役に立つものだけで出来た社会は余分がなく苦しすぎる。表現したいものも無い、描きたいものも無い、記録なら写真が全部担ってくれる。私にはそんな人生は生きることすら難しい。食事をし、睡眠をし、排泄をし、社会の一員となって労働し、必要なものだけを勉強する人生。想像しただけでゾッとする。

要するに、必要があるから絵を描く人間などごく少数だ。それに、「必要だから絵を描く人間」も最初から誰かに求められて描いたわけではない。描きたい、というのは極めて自発的な欲求で、それが他の世界に影響を及ぼすことは少ない。



だが更に思考してみよう。

医学生にとっては、美術は必要ない。だが私にとっては、美術は必要だ。

これはそれだけの話で、前述した私の美術に対する熱意を医学生にぶつけたところで迷惑以外の何物でもない。同様に、医学生に勉強の大切さを熱心に語られたところで、私には無用の言葉だ。私とあの天才医学生には現状何の接点もないが、いずれ何かの偶然で出会ったとしても私たちはお互い別世界の生き物である。

「美術が必要な人間もいるが、必要としていない人間もいる」という、本当に身もふたもない話になった。


あの天才をテレビで見て良かった。遠すぎる価値観の人間とは、超えられない次元の壁越しに見るのが一番だ。





「待て、しかして希望せよ」について

みんな聞いてほしい。


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この漫画は大変である。私は大変なものを見つけてしまった。


以前から某ソーシャルゲームの影響で非常に強い関心を抱いていた、言わずと知れたアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」……原作を読みたい、と思いつつ高校の温室生活でふやけた脳には全7巻の文庫本すら苦行だった。しかしここに救いの光が現れる。Amazonのレビューは星4.5、1巻完結で864円、手元には高校卒業時に貰った1000円分の図書カード。もう買わない理由がない。そして新宿紀伊国屋は偉大である。かくして、翌日の夜にはこの本は私の手中に収まっていた。



読んでみると、これがなかなか最高。

1巻分にまとめているためストーリーは凝縮され、冒頭部分の展開の速さは気にならない、というかむしろこの勢いが良い。私は頭が悪いので少々悩む点はあったが、注意深く読めばなんの問題もない。活字リハビリ中の多忙なアホという三重苦にも「モンテ・クリスト伯」が読める!しかも面白い!

作者様に全力で感謝したい1冊だった。



さて、今週木曜日から放送されているドラマ「モンテ・クリスト伯爵〜華麗なる復讐〜」のタイトルが示すように、この原作は若い船乗りが幸運の絶頂にいる最中、様々な人間に陥れられ冤罪で投獄され、その中で復讐を誓い、脱獄を果たした後には圧倒的な知識と財力でせせこましい悪役をバッサバッサと華麗に薙ぎ倒していく……というストーリーは有名だ。私は悪い人間が苦しみながら死ぬのを見ることに非常に愉悦を感じるので超期待しながら漫画を読んだのだが、この「復讐」という行為と、それに身を染めたエドモン・ダンテスという男が印象的だった。



エドモンは若くして船長に任命され、美しい娘を嫁にしても決して傲慢になることはなく、高潔な精神の持ち主だった。だからこそ恨まれ冤罪という罠にかかってしまうのだが、投獄された後、ファリア司祭という老人との関わりを通じて知恵を身につけ、また脱獄してからは圧倒的な財力をもち、最強となって許しがたい敵を追い詰めていく。

だがここで、私の想像と異なる部分があった。


「華麗なる復讐」というくらいだから、それはもう23年のありったけの怨嗟を込めて、それはそれは無慈悲に悪役を成敗していくのかと思いきや、この伯爵、わりと人間味がある。ありすぎるといっても良い。

もちろん、敵を死に追い詰めるために「よくここまで相手の嫌がること考えつくな……」といった知恵があったり、自分を騙した相手が罠にかかり破滅していくのを眺める様はまさに悪魔そのものだが、恋敵と結婚したメルセデスの涙に計画をなげうってまで死を決意したり、復讐のための駒として用意したに過ぎないエデの婿探しをしたり、復讐する相手の妻子が計画違いでうっかり死んでしまった時「やりすぎた……こんなはずじゃ……」と反省するなど、なんだかんだ「人間」が出ている。


23年だよ? 冤罪で23年投獄されて、発狂寸前まで陥って、ようやく脱獄して復讐が叶うのに、え、そんなに良心残ってて大丈夫?人間、そんなに優しくないでしょ?アレクサンドル・デュマ、甘くない?




私が想像していた通りのフィクションだったとしたら、エドモンは血も涙もない無慈悲かつ残虐な復讐鬼となって、永遠の苦しみを敵に与える恐ろしい伯爵に変身していい。ただ単に「可哀想な悲劇の主人公が、派手に復讐する劇」というのは、読者の日常の鬱憤を晴らすエンターテイメントとして価値がある。


しかし、アレクサンドル・デュマは私の想像を裏切った。

この物語のテーマは「待て、しかして希望せよ」……不幸を乗り越えた人間にこそ幸福は感じられる、というものだった。ただ単に、伯爵が悪役をやっつけ、ああスッキリした、はいおしまいの劇ではない。それだけの物語だとしたら、モンテ・クリスト伯爵は血も涙もない無慈悲な復讐者という生物に成り果て、復讐を果たした後にはもう生きる気力も何もなくなってしまうオチがついただろう。アレクサンドル・デュマは人間大嫌いみたいな復讐劇を考えたくせに、実は「人間はどう救われるべきか」を書いていたのである。



耳にタコができるほど聞く話だが、人生は一度上昇すると必ず転落の時を迎える。だがそこで踏みとどまった者こそ、さらなる幸福へと上り詰め、上昇と下降を繰り返しながら人間として成長していく。

この本を買う前日に、プロダクトデザイナーである講師がアレクサンドル・デュマと全く同じ思想を私たちに教えていた。

不幸な時に、ああもういいや、どうせ無理だ、と投げやりになったら1番のおしまいである。復讐であれなんであれ、ともかく強烈な意思を以って生活していかなくてはならない。そして人間味を忘れてはならない。最後まで人間でいることがどん底に落ちないための秘訣だ。




ちなみに、私は今のところ不幸ではないので、そんなに頑張る必要はない。









おわり





(漫画版「モンテ・クリスト伯爵」のカバー裏の番外編、最高に尊いの極みなので購入した際はぬかりなくチェックしてね)




腐女子論争と、最高の映画について

先日、腐女子についてananでコラムを発表した坂上忍氏が、Twitter上で非常にバッシングされているのを目撃した。

曰く、

『美少年同士の恋愛を妄想? 僕には理解できないなあ。性癖は個人の自由だけど、ちょっとフツーじゃない感じ。』

という文章から始まり、その後400文字程度にわたって腐女子についての概ね否定的かつ、きわめて個人的なコメントが掲載されている。

 

 

そんなことはどうでもよくて、私は今日、生まれて初めて、『二回目の映画を映画館で観る』という体験をした。グレイテスト・ショーマンというミュージカル映画である。

 

映画をよく嗜む人なら、映画館で同じ映画を十回見る、ということも不自然ではないだろう。

私は、映画は一回だけ映画館で観れば気が済む人間なので、どんなに気に入ってもブルーレイが発売されてTSUTAYAに並ぶのを待つタイプだった。

 

しかしグレイテスト・ショーマンは違う。

 

映画が始まって30秒で、気づいたら涙を流していた。

「もしかして情緒が突然ぶっ壊れたのだろうか?」と思うくらい終始泣いていた。なんかもうとにかく最高だった。この100分が1000円であってたまるかと思い、映画館を出たその足でタワーレコードに行き、2000円のサントラを買った。

それからの日々、私はグレイテスト・ショーマンのことしか考えられなくなり、携帯に入れたサントラを道の上で聴きながらこっそり踊った。あまりにも最高なので先輩にサントラを貸したが、肝心の中身を自分のパソコンに入れっぱなしだったので、先輩はやむなくケースと歌詞カードのみを楽しむ羽目になっている。

 

そして2回目を履修する決心をし、1回目に観に行った友達と新宿へ出かけ、冒頭30秒で泣いた。もう既に見たストーリーのはずなのに、ビックリである。同じ映画を繰り返し見る人の気持ちがわかった。最高なものは、何度見ても最高なのだ。

 

今まで「女なのに髭が生えててヘンなヤツ」「大人なのに背が小さくてキモいヤツ」などと馬鹿にされ、「一緒にいると恥ずかしい」と社会の隅に追いやられていた人々が、サーカスという舞台を得てスターになって、スポットライトを浴びて大声で歌ってキレッキレのダンスをしている。観客はそれを見て、一緒に歌って笑顔になる。

これが泣かずにいられるだろうか。いや、ない。人と違うことは恥ずかしがることではなく、人と違うからこそ輝けるのだということを、この映画は小学校の自己啓発ポスターより500倍最高な感じで教えてくれる。この映画を道徳の時間に観る法律を作ってほしい。

 

 

私が生まれる少し前、人間は肌の色や身長、人種、身体的特徴で差別されてきた。人々は目に見える外見的な差異を取り上げて侮蔑したり嘲笑の的にしたりしていた。それがグレイテスト・ショーマンの世界であり、一昔前の当たり前だった。

現在は、そういった外見的差異を侮辱する人々のほうが社会によって厳しく罰せられる社会が当たり前とされ、背が低くても髭が生えてても肌が黒くても髪の毛が赤くても、それが嘲笑の対象とするのは明確な悪になった。

 

外見で人の価値を図ることをしなくなったこの社会において、次に注目されたのは当然のように人間の内面だ。だが人の内面を図る道徳観は、全ての人間においてまだまだ発展途上であるということが、近年のインターネットの傾向などを見ていると感じられる。平気で人の好きなものを否定し、普通ではない、自嘲的であれ、と個人的な主観を押し付けがちだ。外見から内面へと視点が変わっただけで個人の道徳観は退化し、腐女子は普通ではないから歪んでいる、恥であると見なされる。

 

だが私は、そういった「否定してくる人々」を否定したいのではない。先に成長すべきは、抑圧された私たちのほうであると思う。

 

私たちは何が好きなのか?

人におかしいと思われないものが好きなのだろうか。

そんな価値観はクソくらえである。私を含め腐女子坂上氏の言う通り、「美少年同士の恋愛」が大好きであり、尊いと思うのである。自分が好きなものを否定されたからといって一生懸命相手に分からせようと、反論する必要はない。そんな反駁は時間の無駄だ。

 

グレイテスト・ショーマンのスターたちが大声で歌い、華麗な衣装でダンスをし、観客を熱狂させたように、私たちは推しカプの同人誌を読み、イベントで最高の本を買い、同じ沼の仲間と大いに盛り上がればよい。

 

そして近くの映画館に足を運んで、グレイテスト・ショーマンのチケットを1枚買い、最高の100分を体験することを強くお勧めする。

 

 

 

 

 

 

星野源と、おっぱいについて

 

 

 

世の中には、星野源の事が嫌いな人間もいると聞く。

だが私は全く嫌いだとは思わない。なぜなら彼の「おっぱい」というエッセイは最高だったからだ。可憐な少女諸君は、「男がおっぱいおっぱい言うなんてフケツ」と彼を疎み、気品溢れる紳士淑女におかれましては「はしたないしフケツ」などとお嫌いになるかもしれないが、むしろおっぱいおっぱい言わない男の方が危険である。人間はみんなおっぱいの事を考えているにも関わらず、それを隠し、多種多様な文句をつまびらかに披露し、あの手この手でさりげなくおっぱいを触る段階にまで持ち込もうと画策する。

これは危険である。自分の欲望に対して深い思慮を巡らすことのできない人間ほど、こういう上っ面の人間に惑わされる。

 

おっぱいが好き、おっぱいに触りたい、おっぱいを見たい、これらの何がいけないのだろうか?

私は決して性犯罪者の肩を持ちたいのではない。おっぱいが好きだからといって、見知らぬ女性のおっぱいを勝手に触るのは紛れもなく犯罪だし、許されることではない。むしろそれは「おっぱいが好き!」と言っている人間が、最もしてはいけない事である。

あなたが、「おっぱいが好き」ならば、おっぱいに対して敬意を払わなければならないだろう。おっぱいに勝手に触るなどもっての外だ。

星野源はエッセイの中で、きちんとおっぱいに対して敬意を払っている。太古の昔から現在に至るまで女性の乳房は豊穣の象徴であり、力士の貫録はあの堂々とした胸にあるのだ、というようなことを述べている。

 

現代においては、性的趣向をあけっぴろげにすることを嫌う風潮があるが、これはよくない。おっぱいが好きなら好きと言えばよろしい。その結果他人にどう思われようと、星野源は間違いなくおっぱいと唱えることで元気をもらってきた。それを気持ち悪いとかフケツなどと言う人間は、無視をするのが一番である。

 

おっぱいについて熱く語っていたら、友達と焼き肉を食べに行く時間になってしまった。焼き肉大好き。