ウォッシャブル全裸

this is my life

小人の書いた文章

小人閑居をして不善をなす、という言葉が大好きで、事あるごとに使っているのだが、これは森見登美彦の小説「有頂天家族2 二代目の帰朝」から学んだ言葉である。

つまらん人間が暇を持て余しているとロクなことにならない、という意味だ。

Twitterはじめインターネット上で、やれ政治だの思想だの、統計がウンヌン、アルバイトの炎上は賃金の低さウンヌン、アメリカウンヌン、などなど、実に掃いて捨てるべき駄論を繰り広げているのはまごうことなき暇人である。とかく老人は暇が多いため、同時多発的に不善をなす場合が多い。そしてこの時期はあまねく学生たちが春期休暇という暇の宝物庫を与えられるため、より一層タチが悪い事このうえなし。

私もその学生の一人である。

どうにもこうにも、やるべき事が見当たらず、近年まれに見る暇を極めており、小人閑居状態に陥ってしまった。そうなると、何でも批評したがる悪癖が出る。私は今、まさに不善をなしているのだ。おお、ジーザス。

 

 

私が目をつけたのは、最近ニュースでチラリと見かけた、中国でゲノム編集された双子についての事案だった。

どうやら、それはHIVの耐性を獲得するためのゲノム編集であるらしい。

私はこの類の知識は皆目無い。ゲノム編集が何科学に相当するのかもわからないド・素人である。だがゲノム編集というのが、遺伝子をコチョコチョと操作して何となくいい感じにし、生物を良い感じにするための作業だというのは、何となく知っている。

更にHIVがどの程度恐ろしいものか実感したことはないが、湊かなえの「告白」や石田衣良娼年」を読んでいるので、結構やばい病気だということもわかる。

 

ゲノム編集は、「よくない」らしい。

なぜ良くないのか。生物が良い感じになるなら倫理もへったくれも構ってはいられない。生まれる前の生命に手を加えて何が悪い。人為的生物進化の何が悪い。自然出生しか認めない倫理なら、延命治療はどうなるのか。延命治療こそ自然生命のありかたを歪めているではないか。

デザイナーベビーの何が悪いのか?どんどんデザインしてしまえばいい。頭脳明晰、顔面良好、完璧人格者をどんどん作ろう。個性などは不完全な旧式人類が自らの欠点を美化するための無数の言い訳の一つにすぎない。予定調和の人生で何が不満か?波乱万丈、試行錯誤の人生の時代はもう終わる。神とか運命とかそういう曖昧な神秘はオワコンだ。旧人類を超越した新人類との格差などほんの数十年足らずの問題で、我々のようなエラーとバグの多い生物はそろそろ次世代に席を譲るべきである。ゲノム編集がダメなどと言うのは、いずれ頭角を現す新人に蹴落とされたくない老害の意見。ビバ!ゲノム編集!

 

こりゃ見ちゃおれんとブラウザバックしようとする前に待ってほしい。もうお分かりだと思うが、専門的な知識もない、調べもしない、砂漠よりも乏しい土壌しか持たないくせに想像力だけは無駄に持ち合わせている暇人の思考回路がこれである。だめだと言われているものを自分勝手に想像で捻じ曲げ、大丈夫な事にしてしまう。これを老害と言わずして何というか。だめなものにはだめなりの、理由がある。まずはそれを調べることから始めなければいけない。幸い、この高度情報社会において、相応のリテラシーさえあれば結論を得るのは簡単だ。

素人のかじった知識ではあるが、ざっとまとめるとこうだ。

 

まず、ゲノム編集自体は割と普遍的な技術らしい。主に農業や畜産で、育てやすく管理しやすい食物を発明するのに、ゲノム編集は行われる。

ではなぜヒトの編集は倫理的にアウトなのか。それは編集する時期の違いだ。

畜産や農業でのゲノム編集は、体細胞を編集する。対して件の双子は、ヒト胚、すなわち生まれる前に編集されてしまったのが問題という訳だ。生まれる前に遺伝情報を操作してしまうと、操作された情報はそのヒトの子や孫、子孫に永遠に受け継がれることになってしまう。

病気の耐性が遺伝するならいいじゃないか、と思うかもしれないが、ゲノム編集の結果、予想外の影響が出る可能性がある。例えばガンを発症しやすくなるかもしれないし、その他重大な疾患に弱くなるかもしれない。その特性は遺伝として子孫に受け継がれ、もし予想もしていなかった事態になったとしても、その家系を終了させることはできない。このように、ゲノム編集されたヒトに対しての人権侵害も問題になってくるわけだ。

このほかにも、調べれば、ゲノム編集が倫理的にアカン理由はたくさん出てくる。初心者向けの記述もいくつかあるので、興味があれば調べてみるといい。

 

このような科学的根拠を少し並べれば分かることだが、いかに先程のビバ!ゲノム編集!が気の狂った意見か知れよう。だが暇人の多くは、暇なくせに事実確認を怠り、リテラシーをかなぐり捨て、自分の妄想力だけで遥かなネットの大空に飛翔せしめる。妄想の力で浮遊する地に足のつかない生活を送られようと一向に構わないが、これが問題を変えると他人を攻撃する口実になるのだから、たまったものではない。

無知とは恐ろしいものだ。

見える範囲だけで物事を考えると、全てが自分の手に届く範疇の思考で済むので、実に気持ちがいい。なぜなら分からないことがないからだ。人は特に、分からない、知らないという事実を突きつけられると不快になる。いつでも、自分は何でも分かっている、知らないことなど無い、と思い込みたいのだ。

年をとった人間ほどその傾向は強い。自分の知識と経験を疑うということは、自分が生きてきた年数を疑う、自分の人生を疑うということだからだ。自分の人生を疑うのは勇気がいる。せいぜいが二十年足らずなら大して痛くも痒くもないが、六十、七十になると殊更難しい。

 

ゆえに私は、小人閑居をして不善をなす、と覚える。つまらない人間が暇を持て余すと、つまらない人間のつまらない視野だけで物事を観察し始め、つまらない批評をしたくなる。自分は小人だから、物事をあれこれ口に出す前に、まずは小人たる自分の人生を疑うべきだ。無知の知の徹底とも言えるかもしれない。