ウォッシャブル全裸

this is my life

まだ馬の骨じゃない

ごきげんよう平沢進にハマりました。

ハマりすぎてツイッターで1日5回くらい平沢進について言及していましたが、実母にミュートされそうになったので外出と共に平沢進関連のツイートを自粛しています。

ところで、ゴールデンウィークなのに課題も出ず(ヤッター!)、外出はおろか近所のスーパーへの買い物さえ3日に1度にしろと言われるご時世、最初こそ散歩をして公園の花を愛でてみたり、オンライン飲み会に顔を出してみたりしましたが、すぐにやるべきことを見失い、YouTubeソーシャルゲームに勤しむ日々が続いています。sky楽しい

 

そういうわけで私はここ数日の大半を平沢進の鑑賞にあてています。その研究についての中途報告をまとめようと思い数か月ぶりにウォッシャブル全裸を開いてみました。暇で死にそうで今にも部屋のフローリングの木目を数えそうな人々と、既に数え始めてしまった人々、平沢進ってなんだろう?って思ってる人に捧げます。

 

〇認知

私が平沢進を認知したのは「パレード」がきっかけです。ウン年前に弟にYouTubeで見せられた気がします。そのころは「へえ~パプリカね~オタクがみんな口をそろえて見ろ!って言ってくるからすごい有名なんだ~」と大して気にしていませんでした。

今現在、平沢進のファンを自称している人類の大半が、実はファンになる数年前から無意識に「平沢進」を植え付けられていたという事実は、オセアニアでは常識です。

 


【平沢進】パレード(歌詞付き)~映画「パプリカ」~

 

Twitter

数年後、何も知らない私がのんびりとツイッターをしていると、タイムラインにたまに出てくるこの「susumu hirasawa」という男がいます。これは何だろう。プロフィールに飛んでみたところ、何だあのパプリカでパレードの平沢進じゃないか!と発見するに至ります。しばらくも経たないうちにフォローしてみます。

すでに知っている人も多いかもしれませんが、平沢進Twitterは、何を言っているのかサッパリ分からない、というブッチギリの狂気度で有名です。

 

“自信を持って言えることは、私は少なくともミミズには似ていない。 勿論ヤドカリにも似ていない。 私は似ていないものだらけだ。 ゆえにそっと言い残して去る。 またこんど、と。”
午後10:02 · 2020年3月5日TweetDeck
 
比較的意味の分かる記念すべきツイート

しかし私は平沢進のツイートを、「アハハ何言ってるか意味わかんないウケる」というような俗っぽい感性で読みたくありませんでした。そして「平沢進?ああ、あの頭おかしいミュージシャンねw」と渋谷のスクランブルでスタバのコーヒーを片手に訳知り顔をする人類にもなりたくありませんでした。そんなことになったら、私は永久に「頭おかしいは誉め言葉だからw」という俗っぽい非凡を気取った黒歴史の擬人化の奴隷になり、俗っぽい墓場に埋められて一生を終えてしまうことでしょう。

動機は何にせよ、私はこの理解しがたいものを丁寧に捉えなければならないと思いました。

この還暦の男性について一定期間の鑑賞と、研究が必要だろうと結論付けたわけです。

 

〇先輩の導き

「この平沢進という男はいったい何者なんだ」初歩的にそう呟いた瞬間、学年が9個も上の高校時代の先輩から次の動画が送られてきました。関係ありませんが、この先輩は遥か昔に卒業したにもかかわらずTwitterに潜み続け、春には何も知らないのほほんとした新入生を片っ端からフォローしていくという「森のヌシ」みたいな人です。


週間おもしろパソコン 平沢進

 

言いたいことは色々ありますが、ともかく、私はここで「どうやら私とインターネットが赤ちゃんの頃から先駆者だったに違いない」と確信しました。何の先駆者かはさておき、90年代にここまでパソコンについて語る平沢進は、先駆者と言って差し支えないでしょう。

平沢進の正体は、先駆者であったのです。

 

YouTube

しかし「週間おもしろパソコン 平沢進」だけでは、平沢進を真に理解したとは到底言えません。私は赤の他人の叡智を借りるべくYouTubeで気軽に検索しました。そしておあつらえ向きに用意されていた初心者向けの動画を見てみました。


「個人的」初心者向け平沢進ソング15選

どうでしょうか。門前焼き払いもいいところです。2曲目の「白虎野」で非常に安心したのを覚えています。

このころ何の知識もなかった私は、P-MODELが何なのか分からず(平沢進が昔やってたバンドです)、核P‐MODELもナンノコッチャ分からず(P-MODELが休止した後に平沢ひとりでやってるP-MODELらしいです)、ただ困惑しましたが、この中で「庭師KING」という曲にドはまりし、いよいよ深淵への道が拓けたのを実感します。

 

〇江頭 2:50がくれたもの

察しのいいYouTubeくんは、私が平沢進という宇宙を探索し、闊歩しはじめたことに気がつきます。

あなたへのおすすめ欄を何となく流し見ていたら、このような動画が差し出されました。

https://www.youtube.com/watch?v=-kzFVoUJLf8&t=3s

何でしょうこれは。私の笑いのツボは小学五年生の男子と全く同じそれであるのでひとしきり笑った後、この動画を3回くらい見て、この曲の元ネタは何だろうと興味を持ちました。

https://www.youtube.com/watch?v=NLOYEw180po

これが本家です。いかに江頭の再現度が高いかようやく理解しつつ、この全く理解しがたい映像と、聞いたことのない音楽と歌詞、平沢進の世界に突然沈められました。

私は確信しました。

これは理解できないぞ!

世の中に蔓延しているほぼ全てのカルチャーが、いかに人間に理解しやすいように作られているかをつくづく痛感します。なぜなら、理解され共感されなければ売れないからです。売れないカルチャーは軒並み、売れるカルチャーに蹂躙され、忘れ去られ、あるいは存在すら知られないまま、世界から姿を消します。

しかし平沢進は、誰にも理解されないであろうものを、ここ30年は確実に作り続けています。もちろんパプリカや白虎野など上澄みのような頂きやすい平沢進もご用意されていますが、基本、歌詞には共感性の欠片もありません。もし身の回りに「平沢進の歌詞すごい沁みるわ~」という輩がいたら、最悪の場合絶縁することをお勧めします。

平沢進の詩は、他人に理解できるものではない。

そう確信しましたが、ここで探求をやめる気は毛ほども起きず、私の研究は次のステージへ進みます。

 

〇救済の技法

それからしばらくYouTubeで庭師KINGや2D or not 2Dを聴く生活が続いたような気がします。よく覚えていません。しかしある日、突然天啓のように閃きました。

iTunesで全曲ストリーミング配信されているのでは?

そう。平沢進は先駆者なのですから、どう考えてもストリーミング配信をしていないわけがありません。星野源だって全曲ストリーミング配信しています。RADWINPSはしていませんが、RADWINPSは先駆者ではなくみんなの人気者なので、仕方ない事です。

圧倒的な過去作の情報量を期待してiMusic内を検索した私はすぐに落胆しました。

ぜんぜんそうでもなかった。

かろうじてパレードと白虎野はありましたが、初心者が期待していたようなアルバム量ではありませんでした。素人には玉と石の区別がつかないのです。

しかし全く無いわけでもないので、ひとつ分かりやすそうなものをダウンロードしてみましょう、と我がiPhoneに招き入れたのが「救済の技法」です。

Amazon | 救済の技法 | 平沢進, 平沢進 | J-POP | 音楽

ウーンかっこいいジャケットだな~と凡庸な感想を挟みつつ、庭師KING、Forces、ナーシサス次元から来た人、TOWN-0 PHASE-5、MOTHER、救済の技法、と順番に分かりやすいものから攻略していきます。この「わかりやすい」とは歌詞の意味のことではなく、音として興味深いかどうか、メロディーに中毒性があるかなどのことです。

特にMOTHERは、大好きな米津玄師がラジオでおススメしたという事件を聞いてからより深みにハマりました。有名人がいいと言っていると入り込みやすくなる、凡人道の師範みたいな生き方をしているのが私です。


米津玄師と星野源が平沢進を挙げてるのを聴いてニヤニヤするための動画

同じ理由で星野源おススメの「世界タービン」にもハマりました。このころからYouTubeに舞い戻り、ときめく開拓心も露わにどんどん進んでいきます。

何を言っているかさっぱり分からないのに、歌詞を取り巻く音たちと、歌詞を載せるメロディーがあまりに馴染みがよいのが平沢進の魅力の一つです。一見奇抜なピロピロ音や何の楽器かよく分からない音がしますが、それらが組み合わさると何故かとても心地よく、あるいは勇ましく、あるいは懐かしくなったりします。どうしてでしょうか。私にも分かりません。

全く見知らぬ風景画を見せられて、「これはあんたの生まれ故郷だよ」と宇宙人に言われ、「なるほどね」と郷愁を感じてしまうような感覚と言ったら近いでしょうか、

この時点ですでに色々と手遅れな気がしてならないです。

 

〇さらに深みへ

それからしばらく、「救済の技法」を鬼のようにリピートする毎日が続きました。アルバム内の全ての曲を聴いて、リピートしたいものとそうでないものに分かれたりなど、好みはそれなりに分かれましたが、それはそれはアホのように聴きました。それまでRADの「洗脳」が関の山だった理解の範囲は、2D or not 2Dを皮切りに、あっという間にパンクしていました。

「救済の技法」でやや平沢進に頭と感性がこなれてきた頃、またしてもYouTubeが新たな道を拓いてくれました。


A Tree of Sun

宇宙のテクスチャをペロッと剥がして神が行ったモデリングの裏側を見たら、多分こうなってると思います、という曲に聞こえました。精巧な3DCGゲームでカメラをぐりぐり動かしていたら、不意にモデルの内側に入ってしまって、モデルのテクスチャを内から見たらものすごい色彩と形状になってしまった、それの全宇宙バージョン、そういう体験に似ています。すみません、自分でも何言っているか分かりません。とにかく初見でそう思ってしまったのだから書かざるを得ないんです。

自室の畳の上に寝っ転がって終わらない課題と添い寝しながら、衝撃でしばらく呆然としたのを覚えています。

こんな音楽がまだあったのか、少なくとも8年前から。これはとんでもない事実でした。

どうやら、平沢進についてまだ探求する事項はあるようでした。

私は救済の技法でやや慢心していたことを反省しました。平沢進を理解した気になってはいけないぞと自戒もしました。知れば知るほど、平沢進の音楽は私にとって不可侵の領域のような気がしてきます。

 

〇最近

そういう訳で深々とはまりこみ、いよいよ沼地の水面もはるか頭上に遠のいたなあ、でも他のファン(馬骨)はもっと気の遠くなるほど深みにいるなあ、とウロウロし、美術館とフルヘッヘで度肝を抜かれていた頃、私のツイートを見ていたであろう友人が「配信の歌枠で平沢進アカペラ縛りをやってたVtuberがいる」と私に言いました。


ジョー・力一の歌枠 平沢進縛り編

2,3分で終わるかと思ったら1時間強くらいあって部屋でげらげら笑ってしまいました。どうかしています。しかも1曲目がフルヘッヘとは、初心者門前焼き払いじゃないか!となんとなく古参ぶってしまったことを恥じながら、まず知っている曲を順番に聴いて歌唱力の高さに驚きました。普通にめちゃくちゃうまい。

正直アカペラなんて無茶だろうと軽視してしまったのですが、あまりに上手いので白虎野を聴いた辺りからチャンネル登録を迷いはじめます。

1番だけ歌ったりと割と短くパッパと聴けるので、聴いたことのない曲も手軽に試せるのが楽しかったです。試食版平沢進

それにしても、はまろうと思えばどんどん情報が湧いてきますね。ファン(馬骨)の支持が骨太で素晴らしい。新参者にも比較的優しい。西に世界タービンのPVを見て倒れた新参者がいれば行ってライブの映像を支給してやり、東に美術館であった人だろと言われた新参者があれば、行ってオセアニアでは常識だよと言い返します。

曲はほぼ無限にあり、Twitterには平沢進本人が毎日夜に1時間浮上します。

土壌が豊かすぎて掘り返すのに苦労する日々です。際限がないので、そろそろ締めようと思います。

 

平沢進の作ったものは数多くあり、私はそれを享受することで、この平沢進という人間の見た世界を少しだけですが闊歩することが出来ます。平沢進の音楽とライブを視聴することは、アマゾンの森を探検すること、南極に調査隊を派遣すること、木星の衛星に探査機を送ることと一緒です。ありとあらゆる手法のライブパフォーマンスで、ありとあらゆる言葉を尽くした歌詞で、ありとあらゆる音で作られた平沢進の宇宙を、私はまだ全て探索し終えていません。興味の尽きない限り、もう少しこの平沢進という還暦ぐらいのおじさんの世界を見て回ろうと思います。

中途報告は以上です。

 


核P-MODEL-白く巨大で


平沢進 P-MODEL 論理空軍


KAKU P-MODEL - Big Brother


平沢進+会人(EJIN) - 夢みる機械(FUJI ROCK 19)

人生初・ホラー映画について

生まれて初めてホラー映画を観ました。

きのう日本で公開されたばかりの「ミッドサマー」(監督/ アリ・アスター)です。

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ホラー映画とは思えない画面の明るさと華やかさ、それに反して異様に不穏な「祝祭」の文字と主人公(ダニー)の表情が、この映画は他のホラー映画とは違うぞと訴えかけてきます。

いわゆる「暗くてよく見えないから怖いホラー」や「ドッキリさせて怖さを演出するホラー」を観ることが出来なくても、これなら安心して真のホラーを楽しめそうですよね。「暗くて見えない恐怖」や「突然現れる衝撃」は所詮、小手先の技術にすぎません。料理を辛くするのに唐辛子をアホみたいに入れて客の味蕾をバカにする料理人と同じです。

何をもって人間は創作物を怖いと思うのか?グロテスクなもの?絶望感?焦燥感?それとも画面の不穏さ?違和感?

いったいどんな映像が私の精神を滅多打ちにしてくれるんでしょうか?

私はその謎を探るため、池袋の奥地へと足を踏み入れた―――

 

 

**鑑賞後**

 

 

結論から申しますと、上記のおおむね全部です。

まだ公開されて日が浅いので、ネタバレに配慮し、あまり詳細なことは書かないようにしたいのですが、他の感想記事と比べるとネタバレになるかもしれません。これから見に行くぞ!楽しみだ!という人は、読まないことをお勧めします。

 

 

 

 

 

感想を大きく3つに分けて書きます。

 

①グロい

まず驚いたのが「ゴア表現(グロテスク)の多さ」です。

なぜか「こんなに綺麗な映画作るならグロには頼らないだろう」という謎の思い込みがあったのですが、ハチャメチャに裏切られました。ホラー映画とはこんなにゴア表現の多いものだったのか、と新たな知見を得ました。とにかく血が出たり内臓が出たりしてると怖いものです。そんな生物的なところに訴えかけてくるのはひどい。

あと鑑賞後に気づいたのですが、他の作品と比べて暴力的なシーンに「宗教的背景」があるため、尚更こわいのかもしれません。

ただ人が人を殺してる場面は、それはそれで生々しく撮ればショッキングです。しかし「そういう風習だから」「昔からやっていることだから」という文脈で非人道的な映像を見るのは、ただの殺人より余程ショックが大きい。何十年何百年も前の虐殺事件や拷問方法を調べてわざわざ怖くなる時ってあると思うんですが、それと似ています。

しかも画面が常に昼なので、アチャ~これなら暗い方がまだマシだよ~という気にさせられます。世界まる見えもビックリのモロ出しである。

ただゴア映像になるまでの「これからグロいもの出しまーす!」という振りが結構長いので、薄目で観たり手で顔を覆って指の隙間からしっかり見るなど、自己防衛の余地があるのは助かりました。

不意打ちもありました。監督はきっとお茶目な人なんですね。

 

②伏線が上手い

他のホラー映画と比べたことは無いのですが、「あっこの絵伏線だ!」などと、伏線が非常に分かりやすいので面白かったです。

ただ脈絡なく気持ち悪いことが起こるのではなく、最高に怖くて不快なシーンのために何個も布石を見せてくれるので、見ている側としては「この絵はこの人の末路を暗示しているんだ…」など事前に予想を立てることができ、それが徐々に積み重なって、不穏な空気や不安な感情を掻き立てられ、最終的に恐怖へと昇華していくような表現が多かったです。非常に勉強になりました。

まず恐ろしい結末が暗示されておいて、そこへ着々とストーリーが運ばれていくのは非常に恐怖を感じますし、しかし同時に奇妙な高揚感も得ていた気がする……。

 

③明るいのに怖い

むしろ明るいからこそ怖いと言うべきでしょうか。この映画を観て、花冠とリネンのドレスとルーン文字が怖くなるとは思いませんでした。

さっきも書きましたが、明るいと血や肉など見たくないものも良く見えます。

カルト的なホラーの強い映像なので儀式や歌や衣装が独特なんですが、歌一つとっても、民謡独特の音程やリズムが既に怖いんですよね。エキストラの人も全員金髪碧眼の美男美女ばかりで、それもゾッとします。

怖いことをしそうな、見るからに凶悪な人物が、例えば拷問をしていても、創作物としては「まあそうだな」と思ってしまいますが、一見無害で平穏な場所にこそ本当の恐怖が映えるんですよね……

 

 

結論から言うと、期待通りの恐怖感を得て非常に満足です。

最後の方はビビり散らかしていたので、映画に出てくる知らない道具は全部拷問器具に見えました(一回もそういったものは出てこないのですが)。ワァあれで人殺すんだ…と思っていたらくじ引きの機械だったりして、もう内心が大変でした。それくらい繊細な緊張感がずっと続いていて、映画ひとつ観終わっただけなのに物凄く疲れていました。

絶対に感情移入はしないようにしよう、と思っていたのですが、もしかすると、感情移入してしまった方がラストシーンで爆発的なカタルシスを得られたかもしれない、とも思います。

事前に調査したところアリ・アスター監督が「これはホラーじゃなくて失恋映画だよ」などと供述していたらしいのですが、なるほど冷静に考えるとそうだったかもしれません。とにかくカルト的ゴア表現の嵐なので、それに圧されて忘れがちでしたが、後から思い返せばぜ~んぶ主人公ダニーのための出来事だったような気がします。その証拠に、一緒に映画を観た友人達も口をそろえて「人間関係を断捨離する映画」「愛をめぐる壮大な冒険」「倦怠期のカップルにお勧め」などと言っていました。

ただ一つ確実に言えるのは、ネットで「めっちゃ爽快感がある」「天国」「これは救済」など吹聴している人々は全員精神病院に行くべきだという事です。申し訳程度にエンディングに明るい曲を流せばいいと思っているんでしょうか。エンドロールで大困惑してしまいました。

ついでですが、エロシーンもめちゃくちゃに濃かったです。あとで確認したらR15指定でした(後で確認するな)。日本版は修正が入っているとは聞いていたのですが、あまりにもすぎて笑ってしまいました。エロが癒しです。

 

早く書き留めておきたくて乱文になってしまいましたが、「ミッドサマー」に興味を持ったらぜひ映画館へ行ってください。私は絶対に2回目は観ません。ありがとうございました。

 

 

 

PS

パンフレットは映画を観る前に買っておき、鑑賞後にゆっくりお家で読むのをお勧めします。ここに書ききれなかった見どころは全部パンフレットに書いてあります。900円とは思えないクオリティです。おすすめです。

 

 

 

 

 

 

小人の書いた文章

小人閑居をして不善をなす、という言葉が大好きで、事あるごとに使っているのだが、これは森見登美彦の小説「有頂天家族2 二代目の帰朝」から学んだ言葉である。

つまらん人間が暇を持て余しているとロクなことにならない、という意味だ。

Twitterはじめインターネット上で、やれ政治だの思想だの、統計がウンヌン、アルバイトの炎上は賃金の低さウンヌン、アメリカウンヌン、などなど、実に掃いて捨てるべき駄論を繰り広げているのはまごうことなき暇人である。とかく老人は暇が多いため、同時多発的に不善をなす場合が多い。そしてこの時期はあまねく学生たちが春期休暇という暇の宝物庫を与えられるため、より一層タチが悪い事このうえなし。

私もその学生の一人である。

どうにもこうにも、やるべき事が見当たらず、近年まれに見る暇を極めており、小人閑居状態に陥ってしまった。そうなると、何でも批評したがる悪癖が出る。私は今、まさに不善をなしているのだ。おお、ジーザス。

 

 

私が目をつけたのは、最近ニュースでチラリと見かけた、中国でゲノム編集された双子についての事案だった。

どうやら、それはHIVの耐性を獲得するためのゲノム編集であるらしい。

私はこの類の知識は皆目無い。ゲノム編集が何科学に相当するのかもわからないド・素人である。だがゲノム編集というのが、遺伝子をコチョコチョと操作して何となくいい感じにし、生物を良い感じにするための作業だというのは、何となく知っている。

更にHIVがどの程度恐ろしいものか実感したことはないが、湊かなえの「告白」や石田衣良娼年」を読んでいるので、結構やばい病気だということもわかる。

 

ゲノム編集は、「よくない」らしい。

なぜ良くないのか。生物が良い感じになるなら倫理もへったくれも構ってはいられない。生まれる前の生命に手を加えて何が悪い。人為的生物進化の何が悪い。自然出生しか認めない倫理なら、延命治療はどうなるのか。延命治療こそ自然生命のありかたを歪めているではないか。

デザイナーベビーの何が悪いのか?どんどんデザインしてしまえばいい。頭脳明晰、顔面良好、完璧人格者をどんどん作ろう。個性などは不完全な旧式人類が自らの欠点を美化するための無数の言い訳の一つにすぎない。予定調和の人生で何が不満か?波乱万丈、試行錯誤の人生の時代はもう終わる。神とか運命とかそういう曖昧な神秘はオワコンだ。旧人類を超越した新人類との格差などほんの数十年足らずの問題で、我々のようなエラーとバグの多い生物はそろそろ次世代に席を譲るべきである。ゲノム編集がダメなどと言うのは、いずれ頭角を現す新人に蹴落とされたくない老害の意見。ビバ!ゲノム編集!

 

こりゃ見ちゃおれんとブラウザバックしようとする前に待ってほしい。もうお分かりだと思うが、専門的な知識もない、調べもしない、砂漠よりも乏しい土壌しか持たないくせに想像力だけは無駄に持ち合わせている暇人の思考回路がこれである。だめだと言われているものを自分勝手に想像で捻じ曲げ、大丈夫な事にしてしまう。これを老害と言わずして何というか。だめなものにはだめなりの、理由がある。まずはそれを調べることから始めなければいけない。幸い、この高度情報社会において、相応のリテラシーさえあれば結論を得るのは簡単だ。

素人のかじった知識ではあるが、ざっとまとめるとこうだ。

 

まず、ゲノム編集自体は割と普遍的な技術らしい。主に農業や畜産で、育てやすく管理しやすい食物を発明するのに、ゲノム編集は行われる。

ではなぜヒトの編集は倫理的にアウトなのか。それは編集する時期の違いだ。

畜産や農業でのゲノム編集は、体細胞を編集する。対して件の双子は、ヒト胚、すなわち生まれる前に編集されてしまったのが問題という訳だ。生まれる前に遺伝情報を操作してしまうと、操作された情報はそのヒトの子や孫、子孫に永遠に受け継がれることになってしまう。

病気の耐性が遺伝するならいいじゃないか、と思うかもしれないが、ゲノム編集の結果、予想外の影響が出る可能性がある。例えばガンを発症しやすくなるかもしれないし、その他重大な疾患に弱くなるかもしれない。その特性は遺伝として子孫に受け継がれ、もし予想もしていなかった事態になったとしても、その家系を終了させることはできない。このように、ゲノム編集されたヒトに対しての人権侵害も問題になってくるわけだ。

このほかにも、調べれば、ゲノム編集が倫理的にアカン理由はたくさん出てくる。初心者向けの記述もいくつかあるので、興味があれば調べてみるといい。

 

このような科学的根拠を少し並べれば分かることだが、いかに先程のビバ!ゲノム編集!が気の狂った意見か知れよう。だが暇人の多くは、暇なくせに事実確認を怠り、リテラシーをかなぐり捨て、自分の妄想力だけで遥かなネットの大空に飛翔せしめる。妄想の力で浮遊する地に足のつかない生活を送られようと一向に構わないが、これが問題を変えると他人を攻撃する口実になるのだから、たまったものではない。

無知とは恐ろしいものだ。

見える範囲だけで物事を考えると、全てが自分の手に届く範疇の思考で済むので、実に気持ちがいい。なぜなら分からないことがないからだ。人は特に、分からない、知らないという事実を突きつけられると不快になる。いつでも、自分は何でも分かっている、知らないことなど無い、と思い込みたいのだ。

年をとった人間ほどその傾向は強い。自分の知識と経験を疑うということは、自分が生きてきた年数を疑う、自分の人生を疑うということだからだ。自分の人生を疑うのは勇気がいる。せいぜいが二十年足らずなら大して痛くも痒くもないが、六十、七十になると殊更難しい。

 

ゆえに私は、小人閑居をして不善をなす、と覚える。つまらない人間が暇を持て余すと、つまらない人間のつまらない視野だけで物事を観察し始め、つまらない批評をしたくなる。自分は小人だから、物事をあれこれ口に出す前に、まずは小人たる自分の人生を疑うべきだ。無知の知の徹底とも言えるかもしれない。

 

 

 

Q.アートとデザインの違いって何なんですか?

 

お題「どうしても言いたい!」

 私の感覚として、インターネット上で意見を述べるのは無駄な事だと思う。

 インターネット上には、もう素人から専門家まで、ありとあらゆる人間の思想、価値観、意見が掃いて捨てるほどある。その掃いて捨てるものの一つに、わざわざ自分の大事な考えを混ぜるのは無駄な事だ。私が言う言葉に類似した意見は探せば見つかるし、それをリツイートすれば「これがだいたい私も言いたいことです!」と意思表明は出来る。

 だからこれは、その前提を無視しても、自分の意見を書いて残しておきたかったことである。

 

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 この五美大展のフライヤーは、何が問題なのか?そのことについて、なるべくあらゆる意見を読んで考えてみた。私はこのフライヤーを見た時、「いやいや、無いでしょ」と思ったのだが、意外にも賛否両論出たことを知ってたいへん興味深く思ったのである。

 

・賛成派

 これが「アート」であるという考え。誰もやったことのない自己表現、それを東京五美大展のフライヤーにする事こそアートであり、アートを展示する展覧会にふさわしいフライヤーである。アートは自己表現だから、見る人に分かってもらう必要はない。

 しかも、このデザインは五美大展を知らない人を誘引するインパクトがある。斬新で挑戦的だ。ツイッターSNSでの炎上を見越したあえてのデザインならデザイナーはかなり強いし、賢い。美大生というプライドを皮肉るかのようなデザイン。

 

・反対派

 自分たちがこの展覧会に出展するのは納得がいかないほど雑でお粗末なデザインだ。出展者を馬鹿にしている。4年間お世話になった人に渡すことを想定していない、酷いものだ。DMというメディアに、コンセプトが合っていない。用途に即していない。とにかく意図が分からない。何だこれは。これはデザインではなく、アートを紙に載せただけのものだ。

 

 ここから先で考えたいのは、このデザインが正しいか?正しくないか?ということではない。考えたいのは、アートとデザインの関係と、ものを作るという仕事のことだ。

 まず第一に、アートとデザインの違いって何なんだ?

 少しこの方面に学がある人なら、すぐに「アートは自己表現で、デザインは問題解決です」と答えるだろう。それはこの問いを知った時に、誰もが通る結論だ。なるほど、正しいかもしれない。でも本当に、アートとデザインはその言葉だけで、対立関係として区別できるのだろうか?

 ここで例のDMを見ると、余計に混乱する。

 このDMの表面は間違いなく「デザイン」されている。この紙を見た時に、「2019年の五美大展は、2月21日から3月3日まで、六本木の新国立美術館で開催されます。参加する学校はコレコレこの通りで、何時から何時までやっているよ。(だから、来てね)」という情報がスムーズに理解できるだろう。まさに「視覚的に情報を伝える技術=ビジュアルデザイン」そのものであり、それ以外の何でもない。

 だがこれは、アートだという。

 このDMは自己表現であり、見る人が理解できなくてもいいという意思を感じる。つまり「いろいろな人に見せるDMをこんな雑な絵で作るなんて!」という、「雑な表現」をあえてやることが、自己表現だと言うのだ。

 もう一度考えるが、アートとデザインの違いって何なんだ?

 もしアートとデザインが対立関係にあるなら、このDMはデザインか、アートか、絶対にどちらかに分類できるはずだ。もっと言えば、このDMに限った話ではない。

www.taktproject.com

 このプロジェクトは、デザイナーが手掛けている。これは自己表現によるアートか?それとも他者の問題を解決するためのデザインか?もし答えを出さなければならないとしたら、100人に聞いても1000人に聞いても、結論は出ないだろう。

 そもそも、1個の問題に対して100人のデザイナーが解決方法を考えたら、100通りの解決方法が出るはずだ。それはデザイナーが、自分の経験や知識から、その問題を解決するのに最適なモノを作るせいである。そして人間は全員ちがう、「みんなちがってみんないい」なので、出てくるモノも100通りになるのは至極当然だ。

 おや?「自分なりに答えを出す」、その行為は自己表現と言えるのではないだろうか?とすると、デザイナーは、デザイン(問題解決)と同時にアート(自己表現)していることになるのだ。

 このようにデザインとアートは、ただ問題解決と自己表現です、と割り切ることはできないものである。この2つはフワフワとしており、むりやり定義して全人類に知らしめても、あまり良い事はない。くっついたり離れたりしているところを、都合よく自分なりに解釈してしまうのがいいのだ。

 そして再び五美大展のDMに戻って見れば、なんのことはない、この「モノ」は、これを作ったデザイナーが「五美大展の広報」という問題に対して世の中に放った答えのうちの1つにすぎない。これがデザインか、アートかということはあまり問題ではなく、このデザイナーが出した答えがこのDMだった、という他ない。

 (ちなみに、1つの問題に対して1つの絶対的正解、解法を求めること、それを数学という)

 

 

 だが待ってほしい。第二に、ものを作るという仕事に対して考えなくてはならない。

 このDMはデザイナーの知識と経験によって作られた、広報に対する問題への回答の1つです!わーなるほどね!問題解決!ハッピー!

 なぜこうならないのだろうか?情報の伝達は解決された。むしろSNSで盛り上がり、大成功と言える。なのになぜ、「これはひどすぎる」という意見が出るのだろう?

 それは、仕事を完遂した後のこと、その向こうにいる人間のことをあまりにも考えていないからではないだろうか、と思う。

 確かにこの提案は非常に新しい。爆発力があり、炎上する。結果、多くの人に周知される。今までのDMと比較してもそれは一目瞭然だ。

 だがこのDMで、五美大展出展者は、はたして納得するだろうか?

 4年間、努力して頑張って卒業にこぎつけ、やっと全ての成果を、家族や友人、身近な人、プロの世界、そういった外に向かって発信できる。それが卒業制作展という場所だ。美大生の苦労は(人によるが)並大抵のものではない。真面目に取り組んできた人たちにとっては全ての集大成なのだ。そしていよいよ目にする、自分が出展する卒展のフライヤー。期待しながら見てみたら、アレである。

「は?」となっても仕方ない。整ったものを作ろう、手をかけてものを作ろう、と思ってきた学生たちならば尚更ではないだろうか。どう考えても、自分たちの努力と見合ったデザインとは思えない。故に、「ひどすぎる」のではないか。

 ものを作る仕事というのは、ここが難しいところだと思う。

 このDMをデザインしたデザイナーは、もしかしたら1時間でこのDMを作ったかもしれない。だが、実際の作業量は1時間だとしても、この結論に至るまで3ヵ月かかったかもしれない。3ヵ月の思考と実験と模索を経て辿り着いたのが、この1時間の作業かもしれないのだ。

 そして残念なことに、それだけ苦心して作り上げても、普通の人間は目に入ってくる「1時間の作業量」だけを全てと思い込み、結果、これは手抜きだという考えに至ってしまう。その背後にどんなに尊い真理が隠れていても、作者の手を離れてしまったモノは、鑑賞者の手に渡った時点で鑑賞者の評価にゆだねるしかない。そして、大抵の鑑賞者は「なんかいっぱい作業してる方が価値が高い」という見方しかできない。

 

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 100人に、「どちらが手がかかっていると思いますか?」と聞いたら、モナリザを選ぶ人間の方が多いだろう。だが決してモンドリアンが手抜きをしているわけではない。結局、目に見える作業量がモノの価値を決定してしまうという事態は起こりうることなのではないだろうか。反対に、モノの価値が低かったら作業量も少ない、という誤解を招くこともあるかもしれない。

 もちろん少ない作業量で、簡潔に、見る人の心に一生残るような作品もある。だがそれは極めてまれな事で、私達デザイナーやモノを作る人間は、誠心誠意つくり続けるしか方法は無いと思うのだ。

 五美大展DMのデザイナーが、あえて美大生に皮肉を言うためにデザインしたのか、それとも苦心の末の回答としてこのデザインを打ち出したのか、私は図ることができない。だが、ここまで考えて、「このデザイン良いですか?」と聞かれたら、最初と同じように「いやいや、無いでしょ」と答えるだろう。

「いやいや、このデザインで誰かが喜ぶことはないでしょ」という結論であった。

 

 

 

 

 

 

 余談だが、最近のビジュアルデザインについてとても疑問を感じる。西武の女性ポスター、ロフトのバレンタインの広告などだ。果たしてそのデザインで誰が、どのくらい幸福になるのか? 炎上させるだけならその辺のチェーン店のバイトにだって出来る。不快の伝播力は、幸福感の伝播力に比べて格段に強い。光速とジェット機くらい違う。インターネットの情報伝達力は特に負の力に対して大きく働くから、炎上させれば一発で多くの人の目に留まるのだ。それを利用したくなる気持ちも、分からなくもない。

 だが、あらゆる仕事は、クライアントのためでなく、自分のためでなく、誰かの幸福のためにあるべきだと思う。これは理想論に過ぎないが、自分で忘れないように書き留めておきたい。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”サンタさんへ”について

 拝啓、サンタクロース氏。

 今年の日本は暖冬ですが日本海側や北海道ではかなり雪が降っています。この間、札幌で大変な爆発事故がありましたが、日本はおおむね平和です。ノルウェーとかスウェーデンにお住いのサンタクロース氏はいかがお過ごしでしょうか?

 あなたが12月24日の夜に現れなくなってからもう10年あまり経とうとしています。はてなブログは90日更新が無かったら全然関係ない広告が自分のサイトに貼られるのに、あなたはもう10年も私にプレゼントの更新をしていません。どういうことでしょうか。サンタクロース氏は全ての子どもたちに夢とプレゼントを配る魔法おじさんではなかったのですか? 日本では20歳までは子どもです。まあ選挙での投票はもう出来ますが、選挙で投票できることが大人の証拠ではないと思います。

 確かに、子どもは自分で働いてお金を得ることが出来ないため、欲しいものを無償でもらえるという超福祉的サンタシステムを享受することに何の異議もありません。素晴らしいシステムですよね。でもその期限が小学校高学年で切れてしまうという事には、大いに反対しています。10代後半の専門学生だからってお金があるわけではありません。むしろ無いです。お金は年をとればとるほど無くなるものなのです。大金を持てない子どもへの、年に一度の超福祉が、なぜ私にも適用されないのか……とても疑問です。

 しかしサンタクロース氏ばかりを責めるのも間違いですね。私はここ数年、「クリスマスなんて子どものやることやん」などと述べてクリスマスイブを無視してきました。もしかしたらそれが原因でサンタクロース氏は私にプレゼントを届けに来なかったのかも、と大変反省しています。なので今年は、「年内に無償で欲しいものリスト」をきちんと作成しておこうと思い、このように手紙を書いた次第です。

 以下、「年内に無償で欲しいものリスト」の中身になります。

 

 

 

 

 

1.星野源『POP VIRUS』

www.hoshinogen.com

 ホントに欲しすぎて頭おかしくなっています。このブログ書いているのも9割これのせいです。星野源の3年ぶりのアルバム、ポップウイルスです。昨日発売したてホヤホヤ。

 私は昨日、バイト先でお給料をもらって、新宿で課題の材料を買うつもりで山手線を降りました。世界堂へは南口から出るのが一番近いのです。ですが世界堂へ行く前に、「あ、今日は星野源が3年ぶりにアルバムを出したな」と思い出して、南口すぐ傍のタワーレコードに行きました。それが間違いでした。思えばタワレコに行く前、いかにも宗教活動をしているお姉さんから声をかけられてどこかに連れていかれそうになったのは、私がこのアルバムの初回限定版の在庫を見てしまうのを防ぐための、未来からの警告だったのかもしれない。

 私がなぜこのCDをこんなに欲しがっているのか? 理由は4つ、 

星野源の作った音楽がたくさん入っているCDだから

宮野真守星野源がワチャワチャしている映像がたくさん入っている特典があるから

星野源が楽器を演奏している室内ライブ映像がたくさん入っている特典があるから

星野源が書いたエッセイがついてくるから

 実に単純明快ですね。書いていて気持ちがよいです。要するに私はこの1年で星野源というクリエイターに魅了されてしまったのだ。それはあの時、コーチャンフォーで『蘇る変態』を立ち読みしたときから、あるいは専門学校の友人で熱烈な星野ファンから『YELLOW DANCER』を借りた時からかもしれない。朝ドラの主題歌を星野源が担当したから、あるいはあさイチのプレミアムトークに出演したときから、もっと言えば昨年年末にチラ見した『逃げるは恥だが役に立つ』の平匡さんを認識してしまった時からかもしれない。

 欲しいな~このアルバム。できれば初回限定A盤で。Blu-rayディスクの特典が付いてくるやつで。

 

 思えば今年1年、最もお世話になったクリエイターは星野源かもしれない。

 授業が夕方に終わって、いつも一緒に帰る友達と時間が合わず、1人で原宿駅に向かって帰っているとき、『friend ship』をイヤホンで聴きながら歩いた。

 翌日提出の課題がまっさらだった日曜の夜、ひたすらケント紙にアクリルガッシュを塗る手元で『夜』を流した。

 アイデアが出なくてどう考えても詰んだ日の朝、『ドラえもん』を電車の中で聴いて漠然と何とかなる気がした。

 逆に課題が終わってクソ楽しい日の朝の駅前で『アイデア』を流し、気持ちが落ち込んで何もできない日に『地獄でなぜ悪い』を聴き、特に理由は無いけど『時よ』とか『桜の森』とかを無限に聴いていた。『crazy crazy』は特にお気に入りだ。

 友人に布教されて『星野源オールナイトニッポン』の宮野真守ゲスト回とか、アルバム発売直前回とか、色々聴いた。宮野真守回は最高だったし、宮野真守の良さを引き出す星野源という男に心底惚れた。

 だからこの星野源と共にあった1年になんとかして対価を払いたいのだ。私はこのアルバムが欲しい。星野源が作った音楽だから欲しいのだ。1人のクリエイターに対してこれほどまでに傾倒してしまえるのは滅多にない事だ。この人が作ったこれだから欲しい。ファンにそう思わせることの難しさは、一度でもクリエイトの世界に足を入れたことのある人なら分かるはずだろう。

 

 そんなに好きならなんで自分のお金で買わないの? という疑問が湧くのは当然ですね。その答えはリストの2をご覧ください。

 

 

 

 

 

2.Rodeo Crowns のコート

www.ec-store.net

 どうだろうか。どうだろうか! このコートのすばらしさ。これを着たらマジで無敵になれる気がします。確かに試着したとき、やや丈が長すぎたのは認めよう。オーバーサイズを着るとオーバーオーバーサイズくらいになってしまい、「布団を着ているんですか?」という勘違いを生みかねないのも認めます。しかしこのコートは最強(さいつよ)です。なぜなら裏地がスーパーオシャンティだからです。はやくリンクを踏んで画像をめくってください。この裏地のせいで、私は1か月苦しめられています。

 欲しい!と心底思った。渋谷109に新たなるアウターを求めて立ち寄ったものの、どいつもこいつも男ウケの高い服しか販売していないのがとても腹立たしく、エスカレーターを上がるごとに苛々していた。どこもかしこも、流行りのデザインでなければ売っていない。柄と素材を変えただけの服たちがどこまで行っても並んでいる。私がもう少し野蛮人だったら暴れ散らかしてセシルマクビーの服を全部燃やしたかもしれない。そんな中、ふっと目についたのがこのコートだった。

 ……試着までしたのに、値札を見たのが最後だったのがいけなかった。コートなら8000円くらいで買えるやろ、くらい思っていた。普通に予算の倍だった。渋谷は、東京は厳しいのだ。生半可な気持ちで生きていると値札に轢殺されるのだ。

 オーバーサイズだって流行りものじゃないか、結局お前は流行りに流されているのだ!と気づいた方はすみやかに逝去してください。

 

 

 

3.日本銀行券 日本銀行券 - Wikipedia

おかね

 もう、つまるところ、こういうことだ。何の捻りも無くなってしまい大変申し訳ないです。だけど結局こういうことでしょ? 資本主義社会に生きている以上この紙から逃れられないのだ。これがあれば大体の物事は解決する。ヒトが知性を得て社会の原形を築いたとき、隣のムラを発見し、社会を発見したとき、貝殻と野菜を交換したときからヒトはこのシステムに束縛されたのです。超福祉サンタシステムによって無償で与えられたい。労働の尊さとかよくわかんない。やはり無償で与えられるべき究極の物体はこれしかない。

 別に100枚くれとか1000枚くれとか、そんな無理を言っているのではないです。5枚くらいあれば十分すぎるくらいなんです。

 

 ……などと述べていますが、実際に労働してお金をもらった事がある人は、この紙を5枚程度いただくのにどれほど苦労しなくてはいけないか、良く分かると思います。私も分かります。なのでこの話はここらへんでやめておきましょう。

 

 

 

4.国家 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6

 

 お金をタダで頂こうなんて労働者に対する冒涜かつ暴論です。なのでここは『国家』でどうでしょうか。国家があればそもそもお金なんて無くても、自分が法であり自分が権力なので、何も問題ないです。もっと言えば、そもそもサンタクロースにプレゼントをもらえる年齢を憲法で70歳くらいまでにしたらいいのではないでしょうか?

 自分が天才すぎてビックリしました。やはり、クリスマスプレゼントには国家をもらうべきだと思います。

 

 

 

 

5.健康

 いまメチャクチャに咳風邪をひいているのですが、ここ3週間くらい治りません。こんなクソブログを書いている場合じゃないです。早急に何とかしたいです、ガチで。

 

 

 

 以上、年内に無償で欲しいものリストでした。どうぞ、今年の24日にはこのリストにある物のなかから1つ選んでもらって、私の枕元に届けてくださるとうれしいです。トナカイさん用の人参とサンタクロース氏へのクッキーとミルクを用意してお待ちしています。

 

敬具

 

 

 

 

 

追伸

やっぱり星野源のアルバムは自分で買います。

 

 

 

 

塩と理想と現実について

小説は問答無用で心を豊かにするものである。

 

この前提に一切の反駁の余地がない。しかし、インターネット超文明開化の現代において、やれ活字を読め新聞を読めとつばきを散らせば老害と烙印を押されるのは、もはや当然の摂理。悲しきかな、理想と現実は読書とインターネットにとって変わられて久しい。なぜなら活字を読むのは時間がかかるし、お金もかかるし、場所もいるからだ。インターネットは時間がかからず、お金もかからず、場所も要らない。文明は偉大であるだろうが、この場合はどうだろうか。

我々が良くも悪くも心豊かでいられた義務教育時代から幾星霜、悲しいかな、活字によって培われた豊満な土壌は見る影もなくインターネットの荒みに洗い流され、痩せ細った更地と化した。SNSによって供給される申し訳程度の肥料は半分が大嘘か釣りの紛い物であり、もう半分は行きもしない同人誌即売会サークルカットである。ああ無情。要するに私は、強制的に提出期限の定められた課題と半強迫観念によって執り行われる創作活動の自転車操業の中で、なんでもいい、本が読みたい、出来ればゴールデンカムイ全巻1000円くらいのやつ……とブックオフに駆け込んだのである。確か6月くらいだったと思う。

しかしゴールデンカムイは人気の絶頂を博しており1巻も見当たらず、かといって何を買えばいいのか分からず、可哀そうな私は読み覚えのある文庫本を一冊手に取ってレジにて400円払って店を出た。その本は半分読みかけのまま結局昨日までニトリのカラーボックスの中に置いておかれ、今日―――すなわち夏休みという偉大な学生特権の中の1日の中で―――やっと読了に至った。

ここまで読むのも怠かったおまえ。そういうとこだぞ。

 

さておき、有川浩の「塩の街」である。

 

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確か初めて読んだのは中学生か、小学校高学年だったか、判然としない。多分中学生だったと思う。

有川浩は言わずと知れた有名作家である。図書館戦争、植物図鑑は映画化もされたし普通にめちゃくちゃいい話なので知っている人も多い。その普通にめちゃくちゃいい話の原点、すなわちデビュー作がこれである。電撃文庫大賞の大賞受賞作で、角川文庫によって後に発表された四部作を含めて再編されたのが今回読了した「塩の街」。

おもしろかった。

その一言に尽きる。ぐだぐだと「秋庭と真奈の関係が素敵」とか「世界観の描写がリアルで緻密」とか、本当は述べたくない。述べたくないが、良いものの何が良いのかという点はハッキリさせておかないと気が済まないので、敢えて色々掻っ捌いて書き残しておこうと思う。

 

塩の街」は有川浩の「自衛隊三部作」と呼ばれるもののひとつ、前述したようにデビュー作である。そしてあろうことかこれをラノベ文学賞に応募し、あろうことか大賞を獲ってしまった(失礼)。

 

まず、自衛隊三部作全てにおいて言えることだが、緻密な背景画のようにリアルな自衛隊描写が見事だと思う。インターネットでかじった知識、図書館で書物を舐めた程度ではこの精密な組織の描写は出来ないはず。自分の足と手と目などで調べて、その膨大な情報をバックボーンに据えているからここまで「現実的な異常事態」を書けるのだろう。もうこの要素が、ラノベの域を遥か彼方に置き去りにして飛びぬけている。全然ライトなノベルじゃない。ざっくり言うと「日本の東京湾に謎の白い隕石が突き刺さってから人間が塩になる災害が発生した世界で男と少女がどうたらこうたらなる話」なのだが、有川浩は男と少女の関係をどうたらこうたらして終わりではない。政府はどうなる、自衛隊はどうなる、生活は、交通は、企業は、日常の全てはどう変貌したのか、説得力のある背景が考察されている。けれどやはりその膨大な背景をひけらかすことはせず、必要な時に、必要な分だけ書き起こすのだ。

それでも、緻密に織られている分だけ説明の文章は難しく、かといって安易に噛み砕いた文にすると幼稚な小説になることから、仕方なく息の詰まるような地が続くこともある。

しかしその気密さとの折り合いをつけるのがそこに登場する人物たちだ。秋庭という男、その男と暮らす少女 真奈、その関係やストーリーは、緻密で現実的な世界観とは逆に、ロマンスに振り切っており、そんなに何でもドラマチックになるだろうかというレベルで肥大化していく。だが、それも緻密に構成された背景のおかげで何故か妙に共感できる。ラストシーンは、それまでの物語のストーリーによって読者の中に積み重ねられた共感のエネルギーだけで感動できるほどだ。自分の過去と真奈を重ねて共感したりする必要はないし、そもそも無理である。

塩の街」は、「こういう感情があったらいいのにな」という空想を明確に削り出した小説だ。そしてそれにのめり込める小説だ。そういう意味でも、非常に良くできた小説だと思う。

 

(一つ惜しいなあと思ったのは、後半部分の短編四節。本編が終わってすぐに読むと、せっかくぶち上ったテンションが何となく現実よりに叩き落されてしまい、再度上昇しなくてはならない。本編を読んで感動したら、以降の四節は本編の余韻が引いた後に読む方がよかった。個人の見解。)

 

 

小説を読むと心が豊かになるのは、自分の知らない感情を疑似体験できるからだろう。そしてそのためには、没入できるくらい作りこまれた世界と、非現実的ながらも理想の人間たちが必要だ。

有川浩は「書きたいように書いた」だけでこれほどまでに読者を巻き込むエンターテイメントを作れるという。まったく恐ろしい事だと思う。時間があれば、自衛隊三部作の残りの二つも読みたいが、現実はどうだろうか。

 

 

 

 

 

ファンタジーという日常について

 人間社会はかくもストレスに満ちている。

 毎朝、飽きることなく混み続ける満員電車。止め時のわからないLINEトークのようにダラダラと降り続ける雨。意味もなく公道を爆走するマリオカート。騒がしい大学生、講義中にぶっ通しで喋り続ける女。逃避を求めてインターネットを見れば、野田洋次郎が右翼だ軍歌だと叩かれ、女性介護士をデリヘルと勘違いするスケベ爺が話題になり、右を見ればああ~!水素の音~~!!左を見れば、大迫半端ないって!そんなんできひんやん、普通!

 もはやバーチャルは当てにならぬ。私は限界突破した現実味溢れすぎる日常に疲弊し、それでも迫るレポートの題材を求めて友人と図書室へ向かった。

 

 

 

 

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 もうお分かりだろうが、これを図書室で見つけた時点で私の脳からレポートのことなどは爆散している。だが人生において、ファンタスマゴリア以上に大事なものがいくつあるだろうか? レポートの題材など、この絵本を借りることに比べればオーロラとうんこ。頭上にオーロラが輝いているのに足元のうんこを気にする人間は誰一人いない。

 

 かくして私はレポートの題材を一切無視してこの絵本を手に図書室を出た。私がそこまでたむらしげるファンタスマゴリアに執着する理由はただ一つ、「赤ちゃんになれるから」それだけだ。意味が分からないと思うだろうが、かみ砕いていえば「幼少期にこの絵本の縮小版が家にあり、私はその5センチ四方の絵本を手に育ってきたから」―――つまり、ありていに言えば、とても懐かしいものであるから、という一言に集約される。

 しかし私とファンタスマゴリアの関係はそれほど単純ではない。その出会いと顛末を語ると一朝一夕では言葉を尽くせないので割愛するが、私という人間の創造性はジブリファンタスマゴリアで出来ていると言っても過言ではない。しかもファンタスマゴリアというコンテンツはどうしてか、常に私の傍にあるわけではなかった。家にあった5センチ四方の絵本にしろ、ファンタスマゴリアという存在にしろ、「たまに」しか私の前に現れない。周期的かつ偶然的、ファンタスマゴリアは運命的に私の人生の端々に顔を出す。

 

 なぜ、この「ファンタスマゴリア」は素晴らしいのか?

 今更ながら、そもそもファンタスマゴリアとは、たむらしげる氏が「ファンタスマゴリア」という架空の惑星を想像し、その風景を一枚一枚描いたシリーズのことだ。それはストーリーのある絵本ではなく、むしろ旅行用のガイドブックに近い。絵にはタイトルとキャプションがつけられており、そこがどういう場所なのか、簡潔な文で記されている。

 

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 私はこの「ファンタスマゴリア」が、真に優れたファンタジー作品であると考える。

 けっしてリアルではない、平面的なイラストにも関わらずまるでその場でこの景色を眺めているような、深い没頭感を得られる。電球、絵の具、虹、船、海、ひとつひとつのモチーフはごくありふれた日常的なものだが、電球は4500年前の遺跡、虹から絵の具工場が生まれ、緑色の海はガラス体となってクジラが跳ねる―――というように、切り口をひとつ変えるだけでそこに非日常が現れる。

 言わば、ファンタスマゴリアとは、日常と非日常の遠近を狂わせたことによって生まれる、全く新しい世界なのかもしれない。

 

 ファンタジーとは「空想」である。しかし空想だけで世界は成り立たない。例えば魔法やドラゴンが登場するファンタジー小説だって、そこには(人間であるにしろ、ないにしろ)主人公の何らかの生活―――衣食住とか、友人関係、育ってきた環境、国があるかもしれないし、政治があり、法律があるかもしれない。言語があり、ある一定の物理法則があり、力の強弱がある。空想とはいっても、私たちの現実とある程度共通した面が無ければ、「意味の分からないデタラメ」になってしまうからだ。

 

 たむらしげるのファンタジーは、ファンタジーであることを忘れさせるほど自然で、日常的だ。ファンタスマゴリアに立つのに何の前提も条件も要らない。しかし一つ言い添えておきたいのは、この惑星は決して天国のような理想の星ではないということだ。

 例えばチーズ火山のマグマは時折人に当たってやけどを負わせるし、ゼンマイ式ヒコーキに乗った博士は途中、煮え滾るユデダコ海に墜落して一命を取り留める(予定)だし、カクタス・シティーのサボテン人間と触れ合えばトゲがささりまくって痛い。キャプションのユニークな「苦痛」が、さらに日常とファンタスマゴリアの境界を曖昧にし、まるでこの宇宙を何万光年も泳いでいったら本当にファンタスマゴリアに辿り着けるのではないかと思わせる。それはファンタスマゴリアが、苦痛ありきの日常の素敵な応用、あるいは延長であるからに他ならない。

 

 現在のファンタジーは、特に某小説投稿サイトに顕著だが、いかに「魅力的な、自分独自の世界システム」を構築できるかに全てが掛かっている気がする。魔法や魔術という概念は作者によって解釈を変えただけのn番煎じとなり、世界は作りこめば作りこむほど「異世界」となる。そこは読者の鬱憤を晴らすための(或いは作者自身の為の)架空の舞台として機能し、目新しさだけを追い求めた特殊な異世界に適応するため、突然飛び出してきたトラックに不条理に轢かれなくてはならない。それはつまり、満員電車やコミュニケーションに代表される日々のストレスをきれいさっぱり無いことにする、全く新しい作られた世界での全面的な逃避だ。

 

 たむらしげる氏のファンタスマゴリアは、日常のわずらわしさを無視しない。火傷もするし、事故にあうし、サボテン人間の棘は普通に刺さる。しかし、むしろそうした日常のわずらわしさとも取れる点を惑星に組み込み、非日常と一緒に混ぜてしまうことで、ファンタジーを日常の延長線上にまで連れてきてしまう。そうすることで、まるで何万光年も泳いでいけば本当にファンタスマゴリアに着いてしまうのではないか、と思うような、幸せな錯覚を作り出すことができる。

  もちろん、異世界ものにもファンタジーの面白さはある。けれど、私のファンタジーや世界の原点は、多分死ぬまでファンタスマゴリアだろう。