ウォッシャブル全裸

this is my life

Q.アートとデザインの違いって何なんですか?

 

お題「どうしても言いたい!」

 私の感覚として、インターネット上で意見を述べるのは無駄な事だと思う。

 インターネット上には、もう素人から専門家まで、ありとあらゆる人間の思想、価値観、意見が掃いて捨てるほどある。その掃いて捨てるものの一つに、わざわざ自分の大事な考えを混ぜるのは無駄な事だ。私が言う言葉に類似した意見は探せば見つかるし、それをリツイートすれば「これがだいたい私も言いたいことです!」と意思表明は出来る。

 だからこれは、その前提を無視しても、自分の意見を書いて残しておきたかったことである。

 

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 この五美大展のフライヤーは、何が問題なのか?そのことについて、なるべくあらゆる意見を読んで考えてみた。私はこのフライヤーを見た時、「いやいや、無いでしょ」と思ったのだが、意外にも賛否両論出たことを知ってたいへん興味深く思ったのである。

 

・賛成派

 これが「アート」であるという考え。誰もやったことのない自己表現、それを東京五美大展のフライヤーにする事こそアートであり、アートを展示する展覧会にふさわしいフライヤーである。アートは自己表現だから、見る人に分かってもらう必要はない。

 しかも、このデザインは五美大展を知らない人を誘引するインパクトがある。斬新で挑戦的だ。ツイッターSNSでの炎上を見越したあえてのデザインならデザイナーはかなり強いし、賢い。美大生というプライドを皮肉るかのようなデザイン。

 

・反対派

 自分たちがこの展覧会に出展するのは納得がいかないほど雑でお粗末なデザインだ。出展者を馬鹿にしている。4年間お世話になった人に渡すことを想定していない、酷いものだ。DMというメディアに、コンセプトが合っていない。用途に即していない。とにかく意図が分からない。何だこれは。これはデザインではなく、アートを紙に載せただけのものだ。

 

 ここから先で考えたいのは、このデザインが正しいか?正しくないか?ということではない。考えたいのは、アートとデザインの関係と、ものを作るという仕事のことだ。

 まず第一に、アートとデザインの違いって何なんだ?

 少しこの方面に学がある人なら、すぐに「アートは自己表現で、デザインは問題解決です」と答えるだろう。それはこの問いを知った時に、誰もが通る結論だ。なるほど、正しいかもしれない。でも本当に、アートとデザインはその言葉だけで、対立関係として区別できるのだろうか?

 ここで例のDMを見ると、余計に混乱する。

 このDMの表面は間違いなく「デザイン」されている。この紙を見た時に、「2019年の五美大展は、2月21日から3月3日まで、六本木の新国立美術館で開催されます。参加する学校はコレコレこの通りで、何時から何時までやっているよ。(だから、来てね)」という情報がスムーズに理解できるだろう。まさに「視覚的に情報を伝える技術=ビジュアルデザイン」そのものであり、それ以外の何でもない。

 だがこれは、アートだという。

 このDMは自己表現であり、見る人が理解できなくてもいいという意思を感じる。つまり「いろいろな人に見せるDMをこんな雑な絵で作るなんて!」という、「雑な表現」をあえてやることが、自己表現だと言うのだ。

 もう一度考えるが、アートとデザインの違いって何なんだ?

 もしアートとデザインが対立関係にあるなら、このDMはデザインか、アートか、絶対にどちらかに分類できるはずだ。もっと言えば、このDMに限った話ではない。

www.taktproject.com

 このプロジェクトは、デザイナーが手掛けている。これは自己表現によるアートか?それとも他者の問題を解決するためのデザインか?もし答えを出さなければならないとしたら、100人に聞いても1000人に聞いても、結論は出ないだろう。

 そもそも、1個の問題に対して100人のデザイナーが解決方法を考えたら、100通りの解決方法が出るはずだ。それはデザイナーが、自分の経験や知識から、その問題を解決するのに最適なモノを作るせいである。そして人間は全員ちがう、「みんなちがってみんないい」なので、出てくるモノも100通りになるのは至極当然だ。

 おや?「自分なりに答えを出す」、その行為は自己表現と言えるのではないだろうか?とすると、デザイナーは、デザイン(問題解決)と同時にアート(自己表現)していることになるのだ。

 このようにデザインとアートは、ただ問題解決と自己表現です、と割り切ることはできないものである。この2つはフワフワとしており、むりやり定義して全人類に知らしめても、あまり良い事はない。くっついたり離れたりしているところを、都合よく自分なりに解釈してしまうのがいいのだ。

 そして再び五美大展のDMに戻って見れば、なんのことはない、この「モノ」は、これを作ったデザイナーが「五美大展の広報」という問題に対して世の中に放った答えのうちの1つにすぎない。これがデザインか、アートかということはあまり問題ではなく、このデザイナーが出した答えがこのDMだった、という他ない。

 (ちなみに、1つの問題に対して1つの絶対的正解、解法を求めること、それを数学という)

 

 

 だが待ってほしい。第二に、ものを作るという仕事に対して考えなくてはならない。

 このDMはデザイナーの知識と経験によって作られた、広報に対する問題への回答の1つです!わーなるほどね!問題解決!ハッピー!

 なぜこうならないのだろうか?情報の伝達は解決された。むしろSNSで盛り上がり、大成功と言える。なのになぜ、「これはひどすぎる」という意見が出るのだろう?

 それは、仕事を完遂した後のこと、その向こうにいる人間のことをあまりにも考えていないからではないだろうか、と思う。

 確かにこの提案は非常に新しい。爆発力があり、炎上する。結果、多くの人に周知される。今までのDMと比較してもそれは一目瞭然だ。

 だがこのDMで、五美大展出展者は、はたして納得するだろうか?

 4年間、努力して頑張って卒業にこぎつけ、やっと全ての成果を、家族や友人、身近な人、プロの世界、そういった外に向かって発信できる。それが卒業制作展という場所だ。美大生の苦労は(人によるが)並大抵のものではない。真面目に取り組んできた人たちにとっては全ての集大成なのだ。そしていよいよ目にする、自分が出展する卒展のフライヤー。期待しながら見てみたら、アレである。

「は?」となっても仕方ない。整ったものを作ろう、手をかけてものを作ろう、と思ってきた学生たちならば尚更ではないだろうか。どう考えても、自分たちの努力と見合ったデザインとは思えない。故に、「ひどすぎる」のではないか。

 ものを作る仕事というのは、ここが難しいところだと思う。

 このDMをデザインしたデザイナーは、もしかしたら1時間でこのDMを作ったかもしれない。だが、実際の作業量は1時間だとしても、この結論に至るまで3ヵ月かかったかもしれない。3ヵ月の思考と実験と模索を経て辿り着いたのが、この1時間の作業かもしれないのだ。

 そして残念なことに、それだけ苦心して作り上げても、普通の人間は目に入ってくる「1時間の作業量」だけを全てと思い込み、結果、これは手抜きだという考えに至ってしまう。その背後にどんなに尊い真理が隠れていても、作者の手を離れてしまったモノは、鑑賞者の手に渡った時点で鑑賞者の評価にゆだねるしかない。そして、大抵の鑑賞者は「なんかいっぱい作業してる方が価値が高い」という見方しかできない。

 

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 100人に、「どちらが手がかかっていると思いますか?」と聞いたら、モナリザを選ぶ人間の方が多いだろう。だが決してモンドリアンが手抜きをしているわけではない。結局、目に見える作業量がモノの価値を決定してしまうという事態は起こりうることなのではないだろうか。反対に、モノの価値が低かったら作業量も少ない、という誤解を招くこともあるかもしれない。

 もちろん少ない作業量で、簡潔に、見る人の心に一生残るような作品もある。だがそれは極めてまれな事で、私達デザイナーやモノを作る人間は、誠心誠意つくり続けるしか方法は無いと思うのだ。

 五美大展DMのデザイナーが、あえて美大生に皮肉を言うためにデザインしたのか、それとも苦心の末の回答としてこのデザインを打ち出したのか、私は図ることができない。だが、ここまで考えて、「このデザイン良いですか?」と聞かれたら、最初と同じように「いやいや、無いでしょ」と答えるだろう。

「いやいや、このデザインで誰かが喜ぶことはないでしょ」という結論であった。

 

 

 

 

 

 

 余談だが、最近のビジュアルデザインについてとても疑問を感じる。西武の女性ポスター、ロフトのバレンタインの広告などだ。果たしてそのデザインで誰が、どのくらい幸福になるのか? 炎上させるだけならその辺のチェーン店のバイトにだって出来る。不快の伝播力は、幸福感の伝播力に比べて格段に強い。光速とジェット機くらい違う。インターネットの情報伝達力は特に負の力に対して大きく働くから、炎上させれば一発で多くの人の目に留まるのだ。それを利用したくなる気持ちも、分からなくもない。

 だが、あらゆる仕事は、クライアントのためでなく、自分のためでなく、誰かの幸福のためにあるべきだと思う。これは理想論に過ぎないが、自分で忘れないように書き留めておきたい。