ウォッシャブル全裸

this is my life

腐女子論争と、最高の映画について

先日、腐女子についてananでコラムを発表した坂上忍氏が、Twitter上で非常にバッシングされているのを目撃した。

曰く、

『美少年同士の恋愛を妄想? 僕には理解できないなあ。性癖は個人の自由だけど、ちょっとフツーじゃない感じ。』

という文章から始まり、その後400文字程度にわたって腐女子についての概ね否定的かつ、きわめて個人的なコメントが掲載されている。

 

 

そんなことはどうでもよくて、私は今日、生まれて初めて、『二回目の映画を映画館で観る』という体験をした。グレイテスト・ショーマンというミュージカル映画である。

 

映画をよく嗜む人なら、映画館で同じ映画を十回見る、ということも不自然ではないだろう。

私は、映画は一回だけ映画館で観れば気が済む人間なので、どんなに気に入ってもブルーレイが発売されてTSUTAYAに並ぶのを待つタイプだった。

 

しかしグレイテスト・ショーマンは違う。

 

映画が始まって30秒で、気づいたら涙を流していた。

「もしかして情緒が突然ぶっ壊れたのだろうか?」と思うくらい終始泣いていた。なんかもうとにかく最高だった。この100分が1000円であってたまるかと思い、映画館を出たその足でタワーレコードに行き、2000円のサントラを買った。

それからの日々、私はグレイテスト・ショーマンのことしか考えられなくなり、携帯に入れたサントラを道の上で聴きながらこっそり踊った。あまりにも最高なので先輩にサントラを貸したが、肝心の中身を自分のパソコンに入れっぱなしだったので、先輩はやむなくケースと歌詞カードのみを楽しむ羽目になっている。

 

そして2回目を履修する決心をし、1回目に観に行った友達と新宿へ出かけ、冒頭30秒で泣いた。もう既に見たストーリーのはずなのに、ビックリである。同じ映画を繰り返し見る人の気持ちがわかった。最高なものは、何度見ても最高なのだ。

 

今まで「女なのに髭が生えててヘンなヤツ」「大人なのに背が小さくてキモいヤツ」などと馬鹿にされ、「一緒にいると恥ずかしい」と社会の隅に追いやられていた人々が、サーカスという舞台を得てスターになって、スポットライトを浴びて大声で歌ってキレッキレのダンスをしている。観客はそれを見て、一緒に歌って笑顔になる。

これが泣かずにいられるだろうか。いや、ない。人と違うことは恥ずかしがることではなく、人と違うからこそ輝けるのだということを、この映画は小学校の自己啓発ポスターより500倍最高な感じで教えてくれる。この映画を道徳の時間に観る法律を作ってほしい。

 

 

私が生まれる少し前、人間は肌の色や身長、人種、身体的特徴で差別されてきた。人々は目に見える外見的な差異を取り上げて侮蔑したり嘲笑の的にしたりしていた。それがグレイテスト・ショーマンの世界であり、一昔前の当たり前だった。

現在は、そういった外見的差異を侮辱する人々のほうが社会によって厳しく罰せられる社会が当たり前とされ、背が低くても髭が生えてても肌が黒くても髪の毛が赤くても、それが嘲笑の対象とするのは明確な悪になった。

 

外見で人の価値を図ることをしなくなったこの社会において、次に注目されたのは当然のように人間の内面だ。だが人の内面を図る道徳観は、全ての人間においてまだまだ発展途上であるということが、近年のインターネットの傾向などを見ていると感じられる。平気で人の好きなものを否定し、普通ではない、自嘲的であれ、と個人的な主観を押し付けがちだ。外見から内面へと視点が変わっただけで個人の道徳観は退化し、腐女子は普通ではないから歪んでいる、恥であると見なされる。

 

だが私は、そういった「否定してくる人々」を否定したいのではない。先に成長すべきは、抑圧された私たちのほうであると思う。

 

私たちは何が好きなのか?

人におかしいと思われないものが好きなのだろうか。

そんな価値観はクソくらえである。私を含め腐女子坂上氏の言う通り、「美少年同士の恋愛」が大好きであり、尊いと思うのである。自分が好きなものを否定されたからといって一生懸命相手に分からせようと、反論する必要はない。そんな反駁は時間の無駄だ。

 

グレイテスト・ショーマンのスターたちが大声で歌い、華麗な衣装でダンスをし、観客を熱狂させたように、私たちは推しカプの同人誌を読み、イベントで最高の本を買い、同じ沼の仲間と大いに盛り上がればよい。

 

そして近くの映画館に足を運んで、グレイテスト・ショーマンのチケットを1枚買い、最高の100分を体験することを強くお勧めする。